第7章

大島莉理がハクエツ・マンションに戻ったとき、田中尚哉の姿はなかった。使用人たちも、どこへ行ったのか分からないという。

拍子抜けするほど、すんなり荷物を持って外へ出られた。

玄関を出たところで、足が止まる。

彼女をここまで送ってきた田中辰哉の車――ロールス・ロイスが、まだ路肩に停まっていた。深海のようなブルーの車体が陽光を受け、サファイアの内部みたいにきらりと光を跳ね返している。

乗り手と同じだ。黙っているだけで、圧がある。存在感が重い。

「乗れ」

窓がすっと降り、無表情の男の顔が現れた。

大島莉理が一瞬だけ迷うと、田中辰哉は淡々と言う。

「ここから下山の道までは数キロある。タクシーは来ない」

ハクエツ・マンションは警備が厳しく、下のタクシーが上がってくるには住人の許可が必要だ。許可がなければ、歩いて山を下りて拾うしかない。

大島莉理は迷いを断ち切り、助手席へ滑り込む。

「ユンチー・ベイまでお願いします。……ありがとうございます」

結婚前に住んでいた場所。結婚してからは、一度も戻っていない。

走る車内で、もし何か聞かれたらどう答えるか――ずっと考えていた。あれほど大見得を切って「絶対に幸せになる」と言ったのだ。今さら思い出すだけで、頬が熱い。

けれど幸いにも、降りるまで彼は一言も尋ねなかった。

むしろ気まずくなったのは彼女のほうで、玄関前で小さく頭を下げる。

「ありがとう、兄貴。それと……今日のこと、誰にも言わないでください」

病院の件だ。

「分かった」

短く、切れのいい返事。

大島莉理は車が去るのを待ち、久しぶりの“旧居”を確かめに行くつもりだった。だが――いつまで経っても車は動かない。

窓越しに田中辰哉がこちらを見ているのに気づき、恐る恐る口にする。

「……兄貴、上がって水でも飲みます?」

……

キッチン。

水を注ぎながら、大島莉理はまだ半分ぼんやりしていた。社交辞令のつもりだったのに、田中辰哉は本当に「行く」と言った。遠慮というものを知らないのか――いや、知った上でやっている。

コップを持って戻り、申し訳なさそうに言う。

「しばらく戻ってなくて……定期的に掃除は入れてもらってますけど、飲み物は水しかないです」

コーヒーなんて、あるはずもない。

田中辰哉は気にした様子もなく、透明で安っぽいコップを長い指で持ち上げた。

「ここへ移ることは、尚哉は知ってるのか」

「そのうち知ります」

どう対処するかは、まだ考え切れていない。今はただ、ひとりで静かに息を整えたかった。

どうせ、あの愛人がついている。私のことなんて探しに――。

「そうとも限らない」

田中辰哉は窓の外へ目を向けた。

ユンチー・ベイは郊外の山に建っている。窓の視界はよく、上ってくる車がはっきり見える。

黒い光が、空を裂くように疾走してきた。

ブガッティだ。

大島莉理が視線を追ったときには、もう停車している。田中尚哉が降り、ものの三十秒もしないうちに玄関のチャイムが鳴った。

ドアを開けるなり、田中尚哉は用意していた言葉を吐き出す。

「莉理、きみ……兄貴?」

後半の二文字が、情けないほど裏返った。

ここにいるはずのない人間が、なぜかいる。

田中辰哉は淡く彼を一瞥し、コップを大島莉理へ返す。

「水、悪くない」

まるで雑談の一言を置くみたいに言い残し、悠々と出ていった。

後には、最悪の空気だけが残る。

大島莉理は田中尚哉の顔色を見なくても分かった。ひどい顔をしているだろう。

コップを戻そうと背を向けた瞬間、腕を後ろから乱暴に掴まれる。

手からコップが落ち、絨毯の上で割れはしなかったが、水がじわっと広がった。

「なんであいつと一緒にいた。なんで出ていく」

「なんで電話に出ない」

田中尚哉は眉を寄せ、彼女を睨み据える。心の奥まで覗き込もうとする目。

大島莉理は顔をしかめた。

「……痛い」

掴む力が、はっと緩む。目の奥に一瞬だけ後悔が走る――が、次の瞬間、彼は抑えきれないように彼女を抱きしめた。

腰に回った腕がきつい。久しぶりの体温と匂いが、皮肉なくらいに馴染む。代わりのきかないものだと、身体が知っている。

田中尚哉は白い耳たぶに口づけ、囁く。

「莉理……もう脅かすな。あいつに会うな。分かってるだろ、あいつは俺の敵だ」

あんたの敵が、私の敵とは限らない。

大島莉理は白目をこらえ、なだめる声を作った。

「先に離してくれる?」

「嫌だ」

抱え込む腕はますます強くなる。離したら消えてしまうとでも言うように。

田中尚哉はそのまま彼女を横抱きにし、ソファへ下ろした。

「莉理、言ってくれ。俺のところからいなくならない、って」

田中尚哉は田中家の隠し子で、幼い頃から受け入れられなかった。名実ともに田中家の長男である田中辰哉は、揺るがぬ後継者。

田中辰哉は、いつだって大きな山みたいに彼の前に立ちはだかる。

祖父も叔父たちも、辰哉を好いた。優秀だからだ。

けれど大島莉理だけは違った。

彼のために辰哉と真正面からやり合い、容赦もしなかった。

田中尚哉は両手で大島莉理の頬を包み、執着で濁った目を向ける。

「莉理、離さない。俺たち、一生一緒だって約束しただろ」

一生――。

大島莉理の瞳に、複雑な色が走る。

「……覚えてたんだ」

とっくに忘れていると思っていた。愛人と夜を重ねるうちに、家に妻がいることも、式で交わした誓いも。

「当たり前だ」

田中尚哉は迷いなく言い切り、答えを強要するように続ける。

「莉理、約束しろ。もう外へ出るな。田中辰哉にも二度と会うな」

「ふざけんな!」

玄関が開き、三村加奈子が息を切らせて飛び込んできた。ちょうどその一言を聞いた瞬間だった。

怒りで顔が真っ赤だ。

「自分が浮気しておいて、よくそんなこと言えるわね!」

田中尚哉の口元の笑みが固まる。

「三村加奈子、言葉を選べ」

「じゃあ、愛人の名前言ってあげようか?」

勢いで口にしたが、もう引けない。

三村加奈子は大島莉理を背に庇い、田中尚哉との距離をきっぱり切った。

「田中尚哉。男なら認めなさいよ。さっさと莉理と離婚して、できれば財産も置いて出ていけ。莉理の青春を無駄にすんな!」

田中尚哉は、その向こうを見ようとする。だが見えるのは、揺れる髪の一筋だけ。

「莉理……お前もそう思ってるのか」

大島莉理の声は低かった。

「結婚のとき、私が何て言ったか……覚えてる?」

幼い頃、仲のいい両親を見て育った。自分もそういう結婚がしたかった。憧れも、覚悟も、受け入れる準備も――してきた。

新婚初夜、田中尚哉に言ったのだ。

どんなことでも話し合える。でも浮気だけは無理。それだけは触れないでほしい、と。

田中尚哉は覚えている。彼女の言葉は、ひとつ残らず。

「……俺がこうしたのは、お前のためだと言ったら、許してくれるか?」

「は? 浮気しなかったら誰かが私を殺すの?」

荒唐無稽で、笑えるほど卑怯だ。

泣いてすがるか、開き直るか、平然と心変わりを認めるか――どれでも想像はしていた。けれど、こんな言い訳だけは予想していなかった。脱力して、どうでもよくなる。

「離婚しよう」

「あり得ない」

田中尚哉は一瞬だけ動揺し、すぐ冷静を取り戻す。

「莉理、お前、前から知ってたんだろ。知ってて黙ってたくせに、なんで今日になって言う?」

「……何が言いたいの」

長年連れ添った。彼が話の頭を出すだけで、だいたいの結末は読める。

案の定――。

「田中辰哉にすり寄れば俺を振り切れると思ったか? 大島莉理、甘いんだよ。そんなこと、させるわけないだろ」

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